奇跡を生きている

今日の仙台は暖かくて、心地よいお天気でした。

バイトのスタッフと、
「震災の時は寒かったね〜」
「ものすごく寒くてつらかったね〜」
「今日は暖かくて、よかったね」
などと、おしゃべりして、
14:46に海の方を向いて、黙祷しました。

忘れない、忘れたくない、そう思っていても、
やがて記憶は薄れるもので、
自分が残したいような記憶の形に変化していくのでしょう。

あの当時、私はまだスマホを持っていなくて
ガラケーの充電器と電池を持ち歩いていました。
電池って、けっこう重いのです。
でも、重くても、いつも持ち歩いていました。

あんなに切実に、これさえあればなんとかなるからと、
とにかくガラケーがいつでも安心してつながるようにと、
絶対に、一生、ガラケーと充電器は必ず持ち歩くと、
どこかに緊張感を持って過ごしていた気持ちを
いつの間にか、私は忘れていました。

この12年のうちに、ガラケーからスマホに変わり、
充電器を持ち歩くこともなくなりました。
やっぱり重いから、めんどうなのです。
なんとかなるだろう、と、思うようになりました。

自分は大丈夫だろう、と、
震災のあの瞬間まで、
多くの人がそう思っていたでしょう。

年齢も、性別も、体力も、外見も、資産も、地位も名誉も、
病気があってもなくても、筋肉があってもなくても、
幸せいっぱいだろうが、苦しみのどん底だろうが、
震災は、そんなのお構い無しで、たくさんの命を奪い、
生きている人にも様々な衝撃を与えました。

3月11日だけじゃない、何日、何ヶ月、何年にも渡って、
私はあの日々を思い出し、考え、
自分にできることに向き合ってきました。

それでも、12年も経つと、こんなにもいろいろ忘れるものですね。

3月11日は、今まで想像したこともない日でした。
そして、なんてことのない日々が、どんなに奇跡的なのかを
思い知らされた日でした。

私は、そのことは忘れません。

信号機が動くこと
エレベーターが動くこと
壁のタイルがひび割れていないこと
お店で買い物ができること
仕事ができること
いってらっしゃいと声をかけた家族が
いつものように帰ってくること

約束していたことが、約束どおりにできること
約束していたことができないときに、
ごめんね、今度はこうしようって、お話しできること

まわりに応援してもらって、がんばりたいことをがんばれること
なんにもうまくいかなくても、今度こそなんとかできるかもとチャレンジできること

夢がかなってみんなで喜ぶこと
うまくいかなくて、ぷりぷりおこったり、
支え合ったり、なぐさめあったりすること

大好きな人に、大好きと伝えること

いつもあると思っていました。
いつでもできると思っていました。
でも、そうじゃない。

ガラケーを必ず持ち歩くと思っていた私も、
もういません。

生きている、この瞬間。
自分のこの体で感じられること。
自分のまわりにあるものすべて。

二度と同じものには出会えない、
奇跡の連続なのです。

震災を経験して、私は毎日が奇跡の連続だとわかり、
そのことを忘れずに生きています。

当たり前にあるようなこと、すべて、奇跡だと、
本当にそう思って、生きています。

この感覚は、忘れません。
忘れることが、できません。

ありふれた日常が、奇跡の連続なのです💖✨